昭和44年01月05日 特別奉修委員



 信心を頂いておっても信心を頂いてなかったら、尚更の事だろうと思うですけれども自分の気分が、こうさっぱりしない事が御座いますよね何か胸に支えた様な。こうあればあぁあれば気持ちがすっきりするけれども、スッキリしない時がありますそういう時に例えばすっきりこのする事を、まぁ願う訳ですけれどもね、そのスッキリしない中に御神意を悟らして貰うてすっきりするというおかげでなからにゃおかげじゃないです。
  例えば自分の思いを相手に通じない。だからさっぱり、どうも胸が支えていけない。だから是を言うて、向こうに分からせて、向こうも分かったけんこちらもさっぱりした、是じゃあ全然おかげにならん。それをね、さっぱりしない。けれどもそのう、信心さして頂く者は、そこんところを大事にしてくれ、成り行きを大事にすると言ったらそう云う事もあるですね。さっぱりしない。
 それがその信心によってさっぱりさせて頂かにゃいかん。それをもう本当にこうしてからもう押え付けてからでも、言うて聞かせて分からせてなぁ分かったじゃろうというて言わにゃ、こっちがさっぱりせんと言う様な事ではね何時まで経っても信心にならない。そのさっぱりしないその、その事があの信心によってさっぱりした時が本当のおかげなんですね。ここん所をここん所を大事にして行かにゃいけませんですよね。
 例えば私共の、豊美のまぁ、先方からあぁして、あのご相談頂いて、でまぁ行く事に返事をさして頂いたからなら今度、先日お茶が参りました。ですからほんとにまぁ有難い事なんだから、まぁ、有難い事でなからにゃならんのですもんね。所がその、豊美にして見ると、嬉しいのやら腹ん立つのやら分からん様な、まぁ実にデリケートな感情がある、あるらしいんですよね。まるっきりこう。、
 そのまぁお父さんの犠牲になって行きよるごたるなもんも、やっぱ感じごたるふうですよね。そう言う様な中にあってその例えばんなら、もうここ一ヶ月余りでここ11月の、3日にどうだろかと言うて向こうからご相談があっとりますから、まぁそれは私そのまま丁度お休みの日でもありますから、それを承諾させて頂きたいとこう思いよりますけれども。お前は言うて聞かせてこげん有難い事ではないかと言うてですね、
 相手もさっぱりさせると、こっちもさっぱりする様な気がするけれども、それではいけないのですね。そこん所をあの色々分からせて頂いてから、こちらがそういう中にこちらが安心しておれれる、こちらがさっぱりしておれれるおかげを頂かにゃいかん。実にその人間のこう心理状態というものはですね実に微妙ですからね、そう言う所を取って押さえて解らせてと言う様な事では、是は信心のないものとおんなし事です。
 信心があっても是をさっぱりしたい。為にいっぺんそのなんとかね話し合ったら分かるだろう何て云う事を申しますでしょう、話し合って分かったのであってはねそれはその所のおかげであろうばってんこちらの血にも肉にも、なんにもなりゃしませんそげな事は何時もお互いある事ですからねそこん所を信心でね。神様に一生懸命打ち向かせて頂いておってそれが障らんような、さっぱりしてくるというのなかにゃいけない。
 その事でも私神様にお願いさして頂いとりましたら、そのなんていうですかねこの白衣を着て緋の袴を履いて(かたやみな)そしてその、御神飯をお供えしようとこを頂くんですよ。それをその長いこの袴にですねそのま猫とも犬とも付かん様なのが、こう引っ張って行く訳ですね。だから足元をこう裁くのに非常に足元が裁けない訳なんです。はぁ考えて見るとですね今度の豊美の結婚なんかは神様がままになられるとですよね。
 そういう御用ですこれは、私共がままになるのじゃあない。豊美がままになるのではなくて、神様がままになられる。その後に、豊美がままになり、私共がままになる、おかげになって来る事でしょう。おかげというものは、その今日の御理解の中にもある様に、私共の思いが成就すると云う事のおかげだったら、金光様の御信心じゃなくてもいいて。一心を立てればおかげになると。
 和賀心に、それは神は御座るからじゃと。金光様の信心させて頂いとっても、矢張りそういうのがありますよ。只家で拝んでおるとおかげだけを頂いて、それは一心を立てるからおかげになるのである。けど金光様のご信心は、どこまでも天地と一心にならにゃいかん。天地と私共の一心が、天地と一心にならにゃいかん。この柱を拝んでも、一心たればおかげになる。石の祠を拝んでも、一心たてればおかげになる。
 今日の御理解です。そういうおかげは、あなたがままになっただけでしょうが。願うた者がおかげになっただけでしょうが。自分の商売は都合よういっただけに過ぎないでしょうが。それでは天地と一心に繋がって行く事は出来ない。いうならお徳を受けて行く事が出来ん。そういうおかげじゃ。いくらお商売が繁盛になっても、自分の思うごとなっても、そこで私どもお取次ぎを頂いて、お取次ぎを頂く。
 お取次ぎを願う、さして頂く所からです、願うた事に対する、方便の願い捨てと。そういう信心は、方便の願い捨てとおんなし事。ですから方便のじゃいかん、こっちが願うた事に対するご返事を頂いて行く様な信心。そういう信心でなからなけりゃいけない。どんなに、例えば素晴らしい信心の話し合いをしたからと言うてです、それがその、今日の御理解から頂くと、それがおかげじゃないと。
 どこまでも神様の願いに応えて立つ為の信心でなからにゃいかん。そうすると日々神の、このお話と言うかね、日々願った事に対する、そのご返事。例えばこの、まぁ言うならば、朝なら朝の御理解を頂かなければ、ほんとのおかげにはならないと云う事。教えに基づかなければいけない。ですから例えばなら、私が豊美にです、あんたがね、あんたが今度、あのあちらに縁につかして頂くと云う事はね。
 言うならば神様がままになんなさる事ぞと。あんたそういう大変な御用さして頂く事ぞとと言うて、うんなら分からせてですね、こちらがすっきりするのじゃない。これは分からせなくて、こちら自身がそう云う事によって、はぁそげんもあろうと、言わば娘心のデリケートさとでもいうかね。それがま場合によっちゃ、もう親に当たり散らかして、大変なものがある訳なんです。
 けれども、だからといってそれをなら私が、その答えを言うてやってすっきりさしたんでは、こちらがおかげにならん。ここへんをですね皆さん、私は今日は、そこんところをほんとにひとつ解らにゃそそがにゃいかんと、思うですね。すっきりすると、はぁこの胸の内がすっきりするおかげを頂く為に、例えば人間関係であるならば、相手とこう話してやったなら、分かり合うたならばすっきりするじゃろうという。
 そげな事ですっきりしたもんじゃ詰らん。そういうすっきりしない中に、すっきりするおかげを頂くのが信心なんです。そういうすっきりしない、そういう中にすっきりするのが信心。是はゆっくり頂かにゃいかん。そこからです例えば言わんでもかたらんでも、又語らして貰うなら語らして貰う素晴らしい次のチャンスというのがあってです、お互いが交流するおかげそういう交流が天地との交流なんです。
 此の方が祈る所、天地金乃神と一心なりとこう。天地乃神と同根である。かと言うと今度はまた例えば方便の願い捨てであっても、それがね石の祠であろうが、お地蔵さんであろうが、それは、立ち木一本を目当てにして拝んでも、お互いの心の中に神がござるから一心を立てよるからおかげになるのじゃ。奇跡も生まれる。だからそういうおかげではどうですか、こら自分がおかげ頂いただけでしょう。
 神様がままになられるおかげでなからにゃ。それには例えばこのさっぱり(?さそい)今スッキリしたいて言った様な生き方からのおかげでは、何時まで経ってもおかげからおかげを頂くだけである。天地に交流する、いわゆる天地の一心と、私共の一心が一つになる信心。それにはならこちらがさっぱりしないその心をです。言うて聞かせたり、言わば話し合ってさっぱりする。
 普通ここまでですよ、けどもそれでは、それだけのおかげでしょうが。天地に交流する何ものもない。さっぱりしない、普通でなら信心がなかなら、是はほんともう、自分大変苦しい事だろうけれども、信心頂いとるおかげで、それが障らないと言う所まで行かなくては。それが障らないという信心、それがここに、さっぱりするおかげ。信心によって神様に打ち向こうて神様から言うならば。
 取り払うて頂くスッキリしたおかげを頂かなければあぁおかげにはならない。所謂今日の言うおかげはそういうおかげでなからなければ、天地に通うおかげにならない。所謂神様もままになって下さる、言うならば神も喜び氏子も喜び金光大神も喜びというおかげでなからなければお徳にならん。どうでも教えを本当に愈々頂いてだから話し合う共励すんならそのお話をお話を頂いて。
 そのお話を深く深く銘々が頂いていかないけん。どうでもひとつ、私そこん所を、是はもうお互いの一人ひとりの中に、それこそある事です。こういう人間関係の難しい、もうなんと言うても人間関係が、一番難しいと言われるぐらいですから、その難しい中にあってですね、はぁもう例えば、弁舌さわやかに、弁のきく人は、自分の立場をわからせる為に、もうそれを話される人がおりますよね。
 とうとうと話される。そして、自分な解らせた積りで、さっぱりしとる。けどもそれで、はい、そりゃさっぱりするかもしれん。実は奥さん、私はこげんじゃったっですようち言う事はいらんち云う事。隣近所のことでも。そして分からして、あぁそうですかじゃいかんて、それを自分が分からせようとするんではなくて、それに前に自分のほうがさっぱりしとかにゃ駄目だと。それが信心なんだと。
 でこの信心なら、今朝の御理解に通う。一心。自分の一心。天地、天地と同根と仰る。いわゆる一心。そういう又は生きた天地、又は私共の、生きた心というのはそういう心と。そういう生きたものと生きたものとが触れ合って、そこから生まれてくる。そこからこうその交流が始って、そっから生まれてくるおかげであって、今度はさっぱりしたというおかげになる。
 そう云う事をこうやっていく、何回も繰り返していきよるうちにです、もうここに胸につかえるというごたる事がなくなって来る訳です。その稽古ができると。それをいちいち言うて聞かせにゃ分からん。いちいち話し合わにゃ、こうさっぱりしないと言った様な事だったら、何時まで経っても、一生そういう事の中で人間関係で苦労せんならん。人間関係も、ここんところをね、頂きぬくと、もう実に楽なことである。
   どうぞ。